昭和57年3月18日 月次祭
秋田健一郎
「真に有難いと思う心 すぐにみかげのはじめなり」と教えておられます。
ですから、お道の信心は「真に有難い」という心を求めての信心、お参りであり、御教えを拝聴する。ね。
どういうような心の状態になったら、真に有難い心が頂けるか。
只、「どうぞ、どうぞ。おかげを。」というおかげでは、なるほど、おかげは頂きましても、真に有難いという心は起こっとらんけれども、お取次ぎを頂いてお願いをして、かくおかげを頂いた。ね。
医者から見放された人が、合楽で次から次と助かっておるといったようなのは、あー、やっぱ、そうです。「真に有難い」というのが頂けとらんでも、おかげを頂いておる。それは只おかげを頂いただけである。
「真に有難い」という心を頂かして貰う。そこに、おかげのはじめが頂けるようになる。
「真に有難い」という心が、今朝からのご理解じゃないけれども、「信心をすれば、一年、一年、有難うなって来る」というおかげになって来るんです。ね。
「信心すれば、一年、一年、有難うなっていくだけではなくて、位がつくものじゃ」とも、仰せられます。ね。自分で自分の心の中に「ハアー、これが信心の位というものであろうか。これが信心を頂かなければ、頂けない喜びだ。」という風にですね、喜びを目指すということ。「真に有難いと思う心、すぐにみかげのはじめなり」。
二、三日前に、行橋の支部であります堀内先生ところに、もう大変遠い所から、もうそれこそ、尋ね求めして老夫婦の方が参拝された。とにかく、行橋においては教会じゃないけれども、やっぱし、人が助かっておるげなというので、マアー、お参りしてみえた。
というのは、もう、もう恐らく約七十になられるかも知れません、老夫婦の方でしたが、やっぱり、ある教会で熱心に信心の稽古をなさっておられる方です。御本部参拝も、それこそ月参りをする様に、マア、熱心に信心をなさっておられる方らしい。
それを、堀内先生ところにお参りを、それも、もう尋ね求めて、遠い所からお参りしてみえた。
そこで、堀内先生が「そんなら、ここの本部は合楽ですから、合楽にご案内いたしましょう」。「どうか一つお願いします。ガソリン代は私が持ちますから。」と言う様なことでお参りを。沢山なガソリン代をお供えされたそうですから、それは堀内先生のことですから、そのまんま御造営費としてお供えなさった。ね。
丁度、私が昼、ここへ出ていないチョット前でしたが、そのー、しばらく、私がここへ出るのを控えで待っておられた。
どういうことで参られたかというと、ソコヒで、ね、今、何と言うのでしょうか。ソコヒのことを。ああー、エッ、あー白内障。「白内障でもう眼が見えなくなる寸前である。だから、どうでも、ソノー、マアー、おかげで眼が見えるようになるだろうか。」と言うことでございました。
その方が、此処へ着かれて、此処で、もうそれこそ感動一杯でお礼を言われますので、えらい、ソノー、感動しておられると思うたところが、ね、そこの控えで、ソノー、待っておられる間に、アノー、こう閉めてある障子の桟が見えるようになった。もう、それが有難うして、嬉しゅうしてこたえんもんだから、此処へみえてから、マ、それこそ、私がまーだお取次ぎもしない先ですよ。合楽に着いたばっかりなんです。
それがね、その方が言われるのに、「こちらに着かせて頂いて、お手洗いで手を洗わせて頂くその時に、もう何処から涌いて来るか分からない感動が起こって、感動が起こって仕方が無い程でございました。御本部にも月々お参りをさして貰いますけれど、御本部ででも頂けなかった喜びが、合楽教会で頂けるということは、もう、それこそ、不思議でたまらなかった。」と言っておられる。ね。「真に有難い」に触れられたわけなんです。
それには、やはり「一心」とか「一生懸命」というのが、やっぱ、なからなければね、これは喜ぼうとして喜べるものではなくて、喜びは神様が与えて下さるものですからね、だから、神様から与えて下さるような心の状態を、私は、作っていくことのために教えがあると、私は思います。ね。
もう、大変な喜びでございました。もう、その翌日また、堀内先生がお礼、「もう自動車の中でも、もう、それこそ、喜び一杯で、マアー、喜んで帰られた」ということでございます。
今日は、朝から、「○○大学合格御礼」、「○○県立高校合格御礼」が続いておりました。ズーッと。あー、やっぱり、おかげを頂いててます。
中に、朝早う御礼参拝して来たのは、これは不合格御礼でした。
エー、もと久留米から石井清さんという方が参って来よった。その方の弟さんでした。
もう熱心に信心してましたけれども、親方が信心を止めたから、マアー、一緒に信心をなさっ、止められておられたんですけれども、ウーン、こう、もう1月以上でしょうか。その親子で、お伺いに見えたんです。と言うのは、去年、九、九大の医学部を受けられたけど落ちられたんです。それで、「程度をずーっと落として、程度の低い大学の医学部を受けたいと思うが。」というお願いで、えー、見えられました。
で、私が、「そんなことよりも初心を貫きなさい。九大なら九大が良い」。
それから、また元気が出て、マア、九大を受けられることにして、勉強して受けられた。ところが、不合格であった。その御礼であった。
アノー、何かこう、ウーン、いろんな自分の希望やらを書く用紙をアノー、試験前に出さなきゃなりませんですね。
それも、アノー、神様に御神意を頂いて「これが良か。」と言うて、こう○を付けて頂いておったんですけれども。
私がその方のお取次ぎをさして頂いて、頂いたことは「力を落とすな。」ということであった。して、御神願に「御礼、石井」と、お届け帳に書いてあるところを頂いたんです。「石井清之介」て、書いてある。息子は道治とこう言う。
それを、「御礼 石井」と書いてある中に、こう空間がある。ハハアー、そこんところをこう印象的に頂きましたから、「ハハアー、信心しよったけども、長く止めておって、又、息子が受験というので、マー、一生懸命、毎日毎日参って来よる。その一年間という空白があったことが、このことじゃろうか。」
「力を落とすな」。『御礼 石井』と頂いたから、マー、「力を落とすな」ということでございましたが、昼から応援(?)が出来た。そして、親戚から電話が掛かって来た。「あなた方の道治さんの名前が載っとりました。」
それは、勿論、医大に。ソノー九州医大ですね。アノー、の方は不合格であったけれども、そんなことは到底あり得ないというのですけれども、ね、親先生に○を付けて頂いておったのは歯学部であった。その歯学部の方へ合格しておるという。そのことが分かったと言うて、今日は御礼に出て参りました。
これも、不合格で、エー、マー、滅多に参って来んですけれども。マアー、娘が大学受験するのに3つの大学を受験した。3つながら落ちた。
これも又、これは合格ではと県立の高校に、親は、一生懸命に県立に通るようにとお願いした。おかげで通った。
ところが、本人は県立には行かんで、私立に行くち言うげなもん。
「どうわけの?」て、私が言うたら、「看護婦さんになる。看護婦さんになるためには、この私立の何々というのが良かから、どうでも私立に行く」。
「そんなら、あんたのことを合楽の親先生にお願いしてやったっちゃから、いっぺんお伺いせにゃいかん。」と言うて、マー、ね。「合格するけれども、合格したとこに行かん。」と。ね。
だから、私は、ソノー、大学を3つ受けたけれども通らなかった。また、後から通ったけれども、そのとこに行かんという人に、マー、同んなじようなことを、マー、言うたことでございますけれども、「何が目的で大学に行くのか」。ね。
ただ、言うならば、「大学を出ておるから良かとこに縁、縁があるとか、ね。エー、マアー、結婚なら結婚でも、その条件が良い。就職なら就職でも、大学を出ておるから良いというような位なことではなくて、人間の本当の幸せ、特に女性の方は、女性としての、ね、幸福というものは、学校を出ているから出ていないから、頭が良いから悪いからじゃないんだ」。ね。と言うて、私は、マアー、二人の方にコンコンと話したことでございますけれども、ね。
今、合楽で、ここ一両日言われておることは、ね、「問題が問題にならない程しのおかげを頂け」ということである。ね。
教祖の御教えに「学が身を喰う」とある。ね。学問をしておるから、マアー、言うならば、その学が邪魔をする。ね。
「この方は無学でも、人が助かっておる」というような、だから、学があるということが、大学に行くということが悪いということではないけれども、その、かえって身に着けた学問が身を喰うような結果になっては、人間の幸せはあり得ない。
今日、研修の後でしたが、高松和子先生が、今朝から頂いておるお知らせに「道徳的な生き方が問題を生む」と頂いた。
私は、本当に神様の智恵というのは、(?)の表現というのは、素晴らしいと思うのです。ここ、一両日ずーっと言うてきたことですけれども、こういう簡単な言葉は、私は知らなかった。
「道徳的な生き方が問題を生む」。してみると、道徳的な、マアー、言うなら、常識と言うてもいいでしょう。非常に常識が発達しておる、ね、道徳的であって悪いとか、あたら常識が発達して、常識は要らんとかと言うことではありませんけれども、その、知っておる身に着けておる道徳が、常識が、それが、例えば、人を責めたり、人を、ね、それによって批判をしたりするようなことでは、道徳が言うなら身を喰うことになるのじゃないでしょうか。
「学が身を喰う」ということと同じこと。道徳的な生き方がね、人を見ると「ああいう不道徳なことをして」と、目についてくる。自分が道徳的なことが分かるもんだから、自分が常識が豊かだもんだから、非常識な人になると。それを責める。ことによって責める。道徳的な生き方が、ね、問題を生む。その問題のために苦しむのである。
問題を問題とすると言うようなことが,教団では、よく新聞なんかにね、「問題を問題として、検討していけ」と。だから、問題を問題として検討するから、また、問題が問題を生むような結果になるんだ。それを、どこまでも常識とか道徳的なことで判断していこうとするから、いよいよ問題が問題を生んでいくわけである。ね。
決して、皆さん、不道徳であれとか、非常識であれと言うのではありませんよ。ね。
その道徳的な生き方、生き様というものが、問題を生むのだと。
それを、なら、合楽ではどう言うかというと、「馬鹿と阿呆で道を開け」と。ね。
または、合楽の場合は「超道徳」だと。道徳を一つ超えたものなんだ。「超常識」なんだ。常識をもう一つ超えたものだ。それを、例えば、第三者がみると、マアー、無茶なことに聞こえたり、見えたりするのですけれども、だから、そこには「超」がつくようなおかげを、ね、超大作のおかげを頂くことが出来るのです。
昨日の朝のご理解を皆さんにも聞いて頂いたことでしたけれども、昨日、一昨日でしたか。あちらの、三潴の方に、大木町の方からも沢山お参りがありますが、夜中にお参りしてみえた。
嫁さんが、アー、貰うたばっかりで、何か気に入らんことがあって出ていった。だから、呼びに行ったが良いかどうか、いろいろとお願いやらお伺いがあったから、「そのまま放任して、神様にお願いをしていきなさい」。ね。
普通、道徳から言うたり常識から言うたら、ね、すぐ手だてを打つのが本当かも知れんけれども、放任するということはね、(いききろじゃ?)、ソノー、本当に、マー、非常識な親達と言うて笑われたり、言われたりするかもわからない。 けれども、神様は「放任しておけ」と。
2ヶ月くらい経っても帰って来ない。ところが、息子がソノー、その嫁御さんば呼びいった。そして、あなた、近所に家ば借って、そこに住むごたる。その手配をしよる模様でございますというお届けであった。「けれども、親先生、おかげを頂いて、かすかではありますけれども、合楽の信心が分からして頂くようになりましたら、それが、腹も立たなければ問題にもならん。ただ、問題は、夫婦仲睦まじゅういける。それでいけるならそれで良い。」と。「どうぞ、あの二人が立ち行きますように。また、うちの方でも立ち行くように。」と言うお願いであった。
「その行き方が、一番間違いが無い。」と。その話は、昨日、一昨日、昨日でしたか。その話をさせて頂いたら、今日、また御礼に出て見えられた。ね。本当に、その息子と、その嫁が近所に移り住んで来た。ね。そして、初めて嫁がね、親に物を言うた。孫を、孫を連れて来た。ね。
「もう、嬉しいのなんのち言うて、こげな有り難いことはございません」。
それがどうでしょうね、まあ、常識的とか道徳的なことにするなら、必ず、問題が問題を生んで行くところでしょう。親子仲が悪うなっていくかも分かりません。いや、もう、それが、いよいよ、また、アー、その、離散の元になるかも分かりません。けんかになるかも分かりません。
ところが、それをね、そのことを、問題を問題としないで済むという信心。マアー、言うなら、マアー、「ここで、馬鹿と阿呆になっとこ」という信心。ね。
もう、その翌日には、ソノー、マー、息子達夫婦が近所に家を借り、住んで、そして、孫を連れて、親の所に挨拶に来たと。
親、嫁としては、何かこう一言言われるんじゃないかと思うたけれども、もう、とにかく、もう、それが嬉しゅうしてこたえんもんだから、もう本当に。もう喜び一杯で、そのことを聞かせて頂いたら、夫婦も喜び、ね、マー、孫の顔をも見られ、「もう、本当にこげな嬉しいことは無い。」と言うて、早速、御礼に出て来たと言うのです。ね。
「問題が問題にならん」と。そんならば、その問題が問題にならんのは、何故、問題が問題にならんのかということを、マー、合楽理念をもって、その内容に、マー、言うならば、アー、言うならば、皆さん、どういうことでしょう。何故、問題が問題にならんのでしょう。
合楽で教えられることは、結局、「超道徳である。超常識である」をもってすると、どういうことになるか。
問題にしておると、その事がです、ね、勿論、神様のご都合だということであろう。いや、「一切が神愛」と言われるから、ね、または、それが「神願成就」、それが神の願いが成就することのための、その問題である。してみると、その問題には、お礼を申し上げねばならんというような内容が、もっと細やかに言うならば、合楽理念がここんところ説いてあるわけですね。それで(?)、この稽古をしておるわけです。
だから、お礼を申し上げねばならないようなことに、道徳的で言うたり、また常識的に言うと、それが問題をかもして来る。問題が出来て来るのである。しかも、そのまた問題が、また問題を生むというようなことになる。
「学が身を喰うと言うが」と言われるのと同じに、ね、道徳が、道徳的な生き方が問題を生んでいっておるという、現代の状態、世の中ではなかろうかと思います。
信心さして頂く者は、合楽理念にいよいよ基づいて、分からして頂けば頂く程、ね、どのような場合であっても、それが問題になってはならない。それを神愛と受け止めれる。これで、神願が成就していっておるんだとという受け方頂き方が、言うならば、どういう場合であっても出来る。ね。この位の小さい事だったら簡単に出来たけれども、少し大きくなったら、ちょっと、オー、こう難しいというようなではなくて、「理」は同じである。
だから、そこのところを今日のご理解のように、信心が進んで行く。ね。一段一段、言うならば、アー、「一年、一年有難うなって行く」ということは、そういうことが、どういうことがあっても、それを驚きもしなければ、悔やみもせん。ね。 それを「神愛有り難し」、「神願有り難し」として、受けて行けれる、その段というものが、段々上っていく。それが「一年、一年有難う」なるのであり、または、これが信心の位というものであろうかという、その段を感じるような信心でなからなければいけない。
一生懸命参る。おかげを頂く。ね。だから、これは今朝から頂くように「賃を取ってする仕事は、若い時には、人が頼んでくれるが…」と言う御教えがありましょう。ね。
賃を取ってする仕事は若い時にゃ,人が頼んでくれるけれども、ね、年を取ると雇うこと雇われないように、信心も同んなじである。若い時には、ただ一生懸命。それこそ、水を被ったり、断食したりまで、なら、お参りさして頂いた時代には、もう、本当おかげを頂きよったけれども、段々年を取って来て、ね、体が自分の思うように動かんようになったら。ね、もう、言うなら、一生懸命参ることも出来ないし、水を被ることも出来ないというようなことでね、「若い時にゃ、こん位なことは、すぐ、おかげを頂きよったばってん、もう、年を取ったけん、頂けんごつなった。」という結果になって、あわれな悲しいことになって来る。ね。
そういう、勿論、一生懸命参りもしようけれども、そこに、今朝、今、私が申します、信仰的、信仰的ち、信仰の喜びです、ね。いわゆる「真に有り難い」というような心が、ね、育っていくということを楽しみに信心させて頂いておると、例え、体が動かんごつなって、床の中であっても「有り難い」という心。「もったい無い」という心。それが、本当に有り難いというおかげを呼ぶのである。
自分の心は、もう、年を取る程に有難うなって来る。おかげが受けられるのである。
一段、一段、信心の位がついて来るのを感じるのである。ね。
だから、どうでも、一生懸命参るだけではなくて、一生懸命、本気で、ね、「真に有り難い」と思う心というような信心をしなければ頂けない喜び。
今朝から、久留米の石田先生の奥さんが毎日、朝、あーしてお参りになります。
「もう、今朝から、もう、とにかく目をつぶると有難涙がこぼれる。もう、昨日も、お風呂に入っておりながらも、もう、本当におかげ頂いて、合楽にご縁を頂いておったということの有り難さが、もう、とにかく、もう、それこそ、湧き出るように有難うなった」。
毎日、ご主人からお手紙が来る。今、ヨーロッパに、息子さんもお医者さんですから、その医学の研修と、それから大変な宗教に、アノ関心を持たれた方で、キリスト教とか、回教なんかには大変造詣が深いわけなんです。ご自分もそういう宗教をなさっておられた時代もあるから、その研修、あの、ここに、毎日のように、この頃葉書が参りますが、何々寺院の絵葉書にも簡単な、その自分は、その、いろんなお葉書が参ります。(2、3日前の?)日には、とにかく、回教徒とのなんかの研修があって、マー、いろいろと、それはモー、すさまじいまでの修行をするそうですね、回教徒ってのは。ね。マー、ご祈念なんかというのも、それこそ熱烈なご祈念を日々せねばならんようになっておる。いわゆる、まー、言うならば、表行ですね。断食とか、ま、そういうようなことなんかでも、ソノー、いつからいつまで食事をしないといったような、ま、激しい修行をさせて頂く。「その教師、信者の話を聞いておるとです、もう、哀れなるかなである。」ということが書いてある。最後に、哀れな、その話を書いて「哀れなるかな」と書いてあった。ね。
人間的な幸福とか、助かるということには、一つも繋がってない。
教えの研修はしておっても、その教えに詳しゅうはなっても、人間の幸せには一つも繋がってないというのである。
今日のお葉書の中にも、とにかく、合楽様にご縁を頂いておったということが、何じゃったかね、合楽理念を、何じゃったかね、(正教さん、そん時おらんかった?)合楽にご縁を頂いておったということの喜びを、何か、素晴らしい表現で書いてありました。
もう、とにかく、合楽理念をもってすると、どんな、ソノー、宗教のお話を聞いてもです、言うならば、おかしな話である。本当に哀れなことだなあと。
言うなら、奥さんが、今朝からお届けをなさるのも、やっぱ、そうであった。長年、自分は「生長の家」の修行として、マアしておられた。
今日、お話を、私は或る方からきいたんですけれども、その方の娘さんが、石田病院の看護婦をしておられたげな。それで、ちょうど、昨日、その娘がやって来たけん、元看護婦じゃったから、「こうやって、久留米の飯田先生ご夫妻が熱心に信心をなさる」。したら、その娘がたまがってから、「イヤー、あの時分の奥さんは、そりゃあ、生長の家にそりゃあ、(?)熱心にしよったばってん、マアー、言うならば、アー、あの看護婦が泣いたち、あの奥さんのために」。(笑い)本なこつかどうか分からんけど、ね。だから、言うならば、「生長の家」では、ご自身が助かっておられなかったということになるんじゃないでしょうか。
ところが、なら最近の、マア、飯田ご夫妻の場合なんかはね、もうとにかく、合楽にご縁を頂いたということが、もう、目をつぶれば有難涙がこぼれるという程しにです、ね、有難うなっていっておられる。
もう、いよいよ、間違いなく、一年一年有難うなっていく、その基本的なところから、信心が入っていっておられる。ね。
大事な問題をふんまえてとか、事柄じゃなかった。やはり、そのような信心をなさっておられるから、合楽理念がいよいよ分かるのである。
こういう教えがあったということに、もうびっくり仰天して、合楽に、いよいよ夫婦で傾倒していかれるのである。ね。
とにかくね、やはり、「真に有り難い」という心はね、自分自身が本当に助かるということなんです。ね。
自分自身が本当に助かるということは、ね、日々の中に様々な問題があるけれども、その問題が一つも問題にならんで、それが、もう、渾然として、それこそ、ね、「月と雪 情け重ねて 敷き松葉」ということになる。お月様と、それこそ、銀世界の雪の世界。それと、きれいに行き届いておる敷き松葉のしてあるお庭、その三者が一体になって、何とも言えん、言うならば、ああー、様子をかもしておる。
嫌と言うならば、マー冷たいことであろう。ね。月と言うのは「無情な」ということであろう。それこそ、「あの人は無情な人じゃ。冷たい人だ」と言うような人間関係の、例えば、中にあっても、そのことが有難いと受けていけれれる、問題が問題にならないということが、私ども人間の助かるということじゃでしょうかね。
だから、この助かりを先ず頂く、その手立てが合楽に、あらゆる角度から説いてあるのですから、先ずは、私どもの日常生活の中に問題の無く、が無くなる一つのおかげを頂きたい。
人間が、今までつきつめられた(識とか道徳というものを捨ててしまえじゃないけれども、その道徳で人を責めたり、人を見たりすると、ね、そこにはがゆい思いをしたり、ね、責めたりするようなことになるのですから、その道徳そのものをあなたが頂いておる、あなたが道徳的な生き方、あなたが常識的な生き方をすることは良いけれども、これを人に求めたり、ね、いわゆる、教えを責め道具にする人があるというようなことを昔からよく言われますけれども、その道徳が責め道具になるようなことでは助からない。
いよいよ、マアー、合楽で言うならば「馬鹿と阿呆で道を開け」というのが、そういうことじゃないでしょうか。問題にならない。問題が問題にならない。ね。そういう,言わば、助かりを求めての信心。
学校にさえやれば、大学さえ通ってくれれば、それで人間が幸せになるのじゃない。むしろ、その一生懸命にさした学問が、かえって、身を滅ぼしたり、身を喰うような結果にならんとも限らん。ね。
それよりか、どういう中にあっても、問題を問題にせんで済むような心の状態を育てることの勉強を、本気で、子供達に願い、または子供達にもそういう信心をされ、マア、身に付けさせるということの願いの方が本当じゃないだろうか。
それには先ず、自分自身が、そういう問題の無い世界に住まわして頂けれるおかげを頂きたい。
今日、高松先生が頂いたと言う道徳的な生き方が問題を生むのである。
あなたのところに問題があるならば、ね、あなたの常識豊かな又は道徳的な生き方をしておるから、かえって、それが問題を生んでおるといったようなことはないだろうか。ね。
だから、そういう場合、ここは、ね、合楽理念を持ってすればと言うことになると、それは、問題が問題でなくて、お礼を申し上げれる内容のことなのであります。
先ほど、信徒会長が言うておられましたが、ね、いわゆる合楽から千人参りの団参のことの願いがかけられてありますが、皆さんも、毎朝、朝のご祈念の時に,総代さん方が、あーして、お取次ぎを願われる。また、皆さんもただ聞いておる。
言うなら、聞いておるだけでは、つんぼが聞くことと同じこつ。本当ですよ。ね。
それを聞いて、ハイ、自分のとこに頂いてこそ、はじめて自分が聞くということになる。教えを頂くということになるのです。ね。
先だって、15日の富久信会の時に、久富正樹先生が、いろいろ自分のおかげを頂いた、それこそ、信念に満ち溢れた、ソノー、マアー、仕事をしておることの発表をした後に、「私は、これは本-んなこつです。」と、限定しながら言っておることはね、「私は、寝ても覚めても、合楽の、アノー、合楽御造営のね、献納の、が、終わることのためのことと、ね、百年祭に合楽からどーでも千人参りのおかげを頂きたいということを、モー、寝ても覚めても、これは本当に、私は思い続けております。」と、こういう話をしました。
だから、それを話しただけではいかんです。「皆んなも、どうぞ、しっかりやって下さい。」ばかりじゃいかんです。そう言う者自身が「もう、私の方には、私はもう10人の人をお導きして、今度の団参にはお参りするごとしとります。」と、例えば、総代さん方のお届けをしておる一人一人がです、幹部の一人一人がです、もう、それに実行に移っとりますという話をすると、移っていくです。
私は、その先日の正樹先生の話を聞いてです、「もう、私は、それこそ、ね、アノ、信心は無いけれども、同業の方達にも百年祭にはお参りするようにチャンともう約束をしておる。」と言うております。「なるほど、寝ても覚めても、そのことを思い続けておるのだな。祈り続けておるのだな。」と思いました。ね。
もう、何十年前の椛目で、あれは立教百年でしたかね。もう、椛目時代に、何十年前でしたけれども、その時分にね、子供を混じえて230名参っておるですよ。わずかばかりの信者時代に。
その時にはね、もう、総代さん、特に、婦人総代さん方が、もう、立ち上がったんですね。そして、各地区、地区にズーッとお話に行ってから、勧誘して回ったんです。
だから、勿論、信心の無い方たちも「そんなら、私も、いっちょ参ろう」といったようなので、230名の人が当時の椛目から参っておるですから、例えば、皆んなが立ち上がったら、例え千人参りは二千人参りでも出来るはずです。本当は。
私は言ってました。この頃、大会の時に、ね、「一人で10人お導きをさせて頂いたら、百人の信者がおれば千人参りが出来ます。」と言うとるです。ね。
「うちに家族中だけで、親戚の者もあわせると、なら、20名はお参りが出来ます。」とも、アノ、例えば、山口の支部長は、それもあれがしてあるということでございますけれどもね。
私はね、実験実証するということは、教えを実験実証することは勿論ですけれども、ね、そういう御用のためにも、その実験から生まれて来るところにです、私は、喜びが必ずかえって来ると思うんです。ね。
「真に有難いという心」、あらゆる角度から、一つ頂きたいもんですが、皆さん、どうぞ、「真に有難い」を求めての信心になって頂きたい。先ずは、自分が助かって頂きたい。ね。
為にはね、私の周囲には、私の中には、「問題というものはもう問題では無い」。ね。
もう遅うなるついでに、マア一時ばっかり話そう。ね。
今朝からも、ご理解の中に申しましたが、昨日、一昨日、久富繁雄さんの奥さんがお届けをされました。
「今朝方からお夢を頂きました。私の方に親先生がお出で頂いております。そして、『久富さん、愛吉君はおるか。』と。今、今度、中学一年になります孫です。『はあ、今、風呂入っとりますが。』と言うたら、『あんたん所には、刀があったろうが』、『はあ、ございました。』と言うて、刀を持って来た。そこにヒョロヒョロッと、その風呂に入っとったはずの愛吉君がやって来た。そしたら、親先生が、その愛吉を捕まえて、のどに、のど元に、こう、刀をつきつけられたところであった。ね。そん時に、その奥さんが、ね、『生神金光大神様。天地金乃神様。』とお唱えして、その時に心に感じたことは、『親先生から殺されるならば良い。』と、こう、腹を決めた時、目が覚めた」と言う、お知らせであった。
お互い、信心の位というものが進んで行く、一年一年有難うなって行くというのは、勿論、自分の世界に問題が無く、その問題点をどういう、ほんなら、大きな目の前が真っ暗になるような問題が起こっても、それを問題とせずに、神愛として、それが神願成就の働きであるとして頂けれることのため、その可愛い孫が殺される。それは親先生が殺しよんなさる。ね。久富一家と言やあ、もう一家中が、イヤ親戚中が真剣に合楽に傾倒しておる家庭である。だから、「あんたん所には、どの位、刀があるか」ということは、「あんたん所は、真剣、真剣と言うが、どの位、真剣があるか」と言うて、刀を求められたのであろう。そして、なら、「これでもか」と言うて、それでも、「親先生に殺されるのならば、仕方がない」じゃなくて、それを「おかげ」と、こう腹におもうた時に目が覚めたというわけである。
だから、「それは、夢の中でお試しを受けたね。」と言うて、マア、申しましたことですけれども。
夢の中にでも、やはり、お試しがありますが、夢だけではない実際問題として、どういう問題があっても、親先生のお取次ぎを頂いてのことだから、ね、合楽にご神縁を頂いて、ね、合楽の信心によってのことだからと、それこそ、秋永先生が昔言いよったように、それこそ、「親先生が言うことをしてです、それがよし地獄道に繋がっておっても、さらさら厭わん」とこう言う。そういうような確信的なものがね、それがどんな場合であっても出来て行く。
試験というものでもね、頭の良い人はいつも百点満点取るのは、勉強が日頃出来とるからです。だから、合楽理念の勉強が日頃出来ておればね、決して教えておらん所からは問題は出さんと仰るのじゃから。ね。
それこそ、平気でそこを通って行けれる。平気で、言うならば、高校から大学にも、大学院でも進んで行けれるような手立てをです、ね、合楽理念によって勉強させて頂いておきませんと。
これが先日、アノー、北野の江口から参って見えます、エー、青木ツル代(?)さんが頂いておられる。と、「今日も合楽理念の実験実証をさせて下さい。」と言うてお願いしよったげなが、湖の水がこうやって渦を巻いて天に昇るところを頂かれたと言う。ね。
言うならば、土の信心なら土の信心は、もう、そのまま天地に、もう、天に通うような働きが起こって来る程しの、一つ、信心を頂きたい。ね。
ま、今日は、ね、どうぞ、お互いの中からです、言うならば、問題が問題で無い。いや、その問題にお礼が言えれるようなところまで、おかげを頂いた時に、そういう心を「真に有難い」と言うのではないでしょうかね。
どうぞ